仙養坊物語(油木地区 仙養)

 仙養坊は福山藩五代藩主まで祟り続けたため、福山藩主は仙養坊の年忌供養には使者をたて、その菩提を弔ったということです。また明治のはじめ福山藩主阿部伊勢守正桓(あべいせのかみまさたけ)公も仙養ヶ原に足を運ばれ仙養坊の菩提を親しく弔われたそうです。

仙養ヶ原で修行をしていた仙養坊は、法螺貝の名人でした。
 朝夕に法螺貝を吹き近隣七ヶ村十里四方にその音色をとどろかせていま
した。
これを聞いた福山藩主日向守水野勝成公は、仙養坊を戦陣に用いようと
使者を送りました。
しかし仙養坊は「戦陣において殺生のために使うのは仏法に背きます」
と従いません。
勝成公は再び命じましたが、「私は皆を救うために生きているので命令
に従わない」と言ったため勝成公は、烈火の如く怒り家来に命じ仙養坊を
井戸に沈め、石詰めにして殺してしまいました。
 するとその年から近隣七ヶ村が大凶作に見舞われ、村人達は困り果てて
しまいました。
 これは仙養坊のたたりだろうと村人達は社を建てて祀り七日七晩祈り続
けたということです。

 
 
 
 

仙養坊物語(油木地区 仙養)
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